桜の咲く頃

「おや、こんなところにいらしたのですか」

 頭上から降ってくる、聞きなれた声。深くて甘い、落ち着いた響き。

「いや何、そろそろ春なのかと思うとこの寒空が急に恋しくなってな」

 縁側の柱にもたせかけた頭をずらして声の方を見やると、微笑む切れ長の目と視線が合う。その深紅の瞳は、帳の中で一層深みを増していた。
 少し霞んだ、満ちるには少し足りない月が三日月の膝元をまで影を伸ばしている。
 つい先日まで庭のそこかしこに残っていた雪は、連日の陽気に溶け、いつの間にか無くなっていた。

「もう少し広間の近くでもよろしかったのでは? 春がやって来るとはいえ、まだまだ夜は冷えますよ」

 そう言いながら、小狐丸は三日月の隣に腰を下ろす。
 この本丸では、主が最近精を出していた甲府での任務が完了し、新たな仲間が増えた。
 今日は任務終了の労いと新人歓迎会を兼ね、広間では宴会が催されている。暖房設備はもちろん、酔いのまわった刀達が騒いでいる広間は熱気に包まれ酷く暖かい。
 小狐丸も、この時期はいつも羽織っている山吹色の上着を畳んで抱えている。宴会の熱気が冷めやらぬのだろう。

「わざわざこんなところまで」

 吐き出した息は、彼の髪と同じような白銀に染まり、霞と混ざって消える。
 小狐丸は、三日月に倣って空を見上げた。
 それぞれが吐く息が闇に溶けてゆくのを見つめ幾許かの無言の時間のあと、ぽつりと三日月が口を開いた。

「この本丸ができた頃は、こんなに賑やかになるなんて思いもしなかった」

 二人が並んで座る縁側は、宴会が催されている広間とは建物が異なるが、その賑わいは風に乗ってここまで届いてくる。よく響く、楽しそうなあの声は、驚き好きの彼のものだろうか。

「そなたは、酷く来るのが遅かったなぁ」

 賑やかな風に酔ったようにそう零した三日月は、脇に置いた朱色の杯に手を伸ばして口許へ近づけたところで、その双眸をはたと見開いた。

「おや、すまなんだ。杯がひとつしかない」
「ご心配には及びません。こちらに」

 そう言って小狐丸が懐から取り出したのは、三日月のものとよく似た形の杯。掌に丁度収まるくらいのそっくりな形とは裏腹に、その色は対照的だ。三日月のが夕焼けならば、小狐丸のは月明かりに照らされた空を切り取ったような。

「用意が良いな」

 ふわりと微笑み、杯を置くかわりにすぐ隣の徳利を指先で掴み、目の高さまで持ち上げて少し傾げた。

「もとよりそのつもりで参りましたので」

 ふふふ、と少し恥ずかしそうに笑い、差し出された徳利の口を、杯で受ける。

「1年と半年ほど……、になりますか」

 彼がこの本丸に顕現したのは、一昨年の九月ごろ。
 この本丸が設立された初日に顕現した三日月とは大きく異なり、その姿を見るのに実に一年半近くを要した。

「貴方にとっては数年やそこらの年月など、そう長い期間ではございますまい」

 濃縹の杯に注がれた透明な液体は、彼の薄桃の唇を僅かに潤している。柔らかそうなその薄桃は、月の光を浴びてより一層艶っぽい。
 「何年生きようと、待ち人のある時間は長く感じられるものだ」
 三日月はひとり微笑し、手にした杯に唇を近づける。

「相手を想う気持ちが強いほど、な」

 くいと傾けた顎先から滑らかにのびた曲線が上下に動き、こくりと小さな音をたてる。
 小狐丸は、自分の足先を見つめて伏せがちだった目を改めて三日月に向けた。

「そのように強く私の事を思っていて下さったと?」

 はて、と小首を傾げて考えてみても、小狐丸には心当たりがない。そもそも、彼らふたりには刀であった時代の接点はないはずである。

「何、ただの片想いと言うやつだ」

 月の光に照らされてやや青白く染まった三日月の細い指が夕焼け色をなぞり、僅かに残った水滴が、その動きに従って杯の内側を転がった。

「その姿を正しく知る者がいなくなっても尚、人々に詠われ、求められ、愛されるおぬしが、この自分と兄弟であると言うのだ」

 金の三日月が明るく映える瞳に、小狐丸の姿を捉え、つと薄く細める。

「ひと目見たいと思うのは当然であろう?」
「そのような……」

 小狐丸はその瞳に射抜かれた様に言葉に詰まる。

「それは……、私とて、同じこと」

 ぐっと唇を引き結び、寂しそうな表情のまま言葉を継いだ。

「依代としての刀を持たぬ私は、楽の音や人々の詠う声に惹かれて現世に参ります。それが何時の時代であっても、人々が口にする諸々の話の中で、貴方の評判を耳にしない事などなかった」

 困ったように眉尻を下げるが、その目元は優しく弓なりに細められている。
 月の光とも相まって、戯れに降りてきた精霊か何かでもあるのかと錯覚させるほど妖艶で美しいその姿に、三日月は息を飲んだ。

「私だけかと思うておりました」

 色白くも骨のしっかりとした手を胸元に添え、固くよっていた眉間の皺を緩めてそう零す。
 沈黙に堪えきれずに、ふ、と息を漏らしたのは三日月だった。

「そうかそうか、……千年越しの両片想い、というやつだな」

 心底愉快そうにからからと笑い、二杯目に口をつける。夕焼けから唇が離れても尚、まだ肩を震わせて笑っていた。

「おや、桜の花びらが……」

 小狐丸が手を伸ばし、いつの間にやら三日月の頭を彩っていた、小さな花弁をつまんだ。
 途端、三日月の頬に、鮮やかな紅が散った。
 三日月殿、と小狐丸が声をかけるとよりその紅は彩度を増して、三日月がふるふると頼りなく首を振るのに合わせ、周囲を舞う花びらも少しずつ枚数を増やすようである。

「み、見るな」	

 羽織の袖で顔を隠すが、止まる様子なく舞い続ける花びらが、喜びと恥じらいと照れの混ざった心情を、その口の代わりによくもの語っている。
 手に握られていた杯から雫がぽとりと落ち、髪色よりもやや深い濃縹の羽織に小さな染みをつくった。

「――っ」

 心なしか震える三日月は酷く幼くて、戦場で普段見せる大きな背中とは対照的で。
 ああ、この刀も自分と等しい。人の心を与えられ、それを体現する肉体を得て。
 小狐丸は、妙に冷静な頭でそう思った。

「三日月殿、お召し物が汚れてしまいます」

 尚も顔を隠し続ける三日月の腕を掴み、小狐丸が杯を手から滑らせようとすると、強ばっていた腕の力が抜けて隙間から表情が窺えた。

「まったく、適わないものだ」

 零した溜息と共におそるおそるも腕を下ろし、所在無さげに羽織の裾をちょいとつまむ。
 その頬はまだほのかな紅を残しているが、黄金の三日月を宿したその双眸は真っ直ぐに小狐丸を見つめた。

「小狐丸」
「はい」

 微笑んだままで、でもその声はしっかりと。

「会いたかった」

 陽気を孕んだ風が木の葉を揺らし、耳に心地よい音をたてて流れていく。
 少しせっかちな桜が、月明かりの庭を彩っていた。