静心なく -序-
――始まりは、一陣の春一番だったように思う。
春の陽気への期待に胸を高鳴らせて揺れる木々と、どこぞの家が仕舞い忘れたらしく転がっていくブリキのバケツとが協奏曲を奏でる、穏やかな午後だった。
空は薄曇りで、暗くはないが一雨来そうな気配を漂わせている。
容赦なく店の入り口の硝子戸を叩く風に、小狐丸は今朝がた外に並べた花たちを気にして、手にしていた小説から顔を上げた。この寒い時期に店の前に出すことのできる花は限られているため元より数は少ないのだが、せっかくの大輪たちが成す術もなく吹きさらされているというのはなんだか落ち着かない。
平日の昼下がり、幸いにして客足が丁度引いたところであったために、小狐丸の手は小説を開くことが出来るほどに空いていた。
ここ数年ずっと追いかけている著者の、新作だった。初めは何と無しに手にした小説だったが、読み終えたころにはすっかり世界に引き込まれて、別の話にまで手を伸ばしていた。
少し息を吐き、外に並んだ花たちを屋内に移そうと立ち上がる。冷たい畳を踏みしめた、つい先程までひざ掛けに覆われていた足裏が、やや竦み上がったのを感じる。木の突っ掛けに足を滑り込ませて土間に下りれば、より一層冷たい空気が剝き出しの裸足を撫でた。
店の入り口の、少しだけ古びた硝子戸をからからと小気味よい音を立てて開けると、途端に駆け抜けた風が小狐丸の長い髪を掬い上げて翻らせた。
顔を覆った毛束を無造作に摘み上げ、後ろに流す。髪留めを持っていないことを後悔しながら、素早く終わらせてしまおうと花の咲き誇る鉢たちに向き直った時であった。
しゃがみ込んだ小狐丸の腰に、軽やかな感触が触れた。
「なんじゃ……?」
小狐丸の腰にしがみついても尚、風を受けてはためくそれをやっとのことで捕まえて広げると、どうやら原稿用紙のようである。
薄い生成りの地に芥子色の罫線が走り、やや懐かしさを感じさせる。紙本体も手触りから上質なものとすぐにわかるが、その上で踊る筆跡がひと目で書き手の教養の深さを窺わせた。
崩してはあるが、決して読みにくいという事はない。
むしろ紙全体を埋め尽くす、流れる様なその線の美しさに小狐丸は思わず見入っていた。
だから、そのまま顔を上げて目にした美貌に、頭を殴られたような衝撃を覚えたのだ。
「、はぁ、はあ、っすまない。拾ってくれたのか。ありがとう」
息を切らし、乱れた髪がその顔に零れかかる様に、息を呑んだ。
風が吹きすさぶ住宅街と、縹の作務衣に赤い半纏を纏ったその姿は似つかわしいのに、その上にのった頸だけがどうにも収まらない。風の精が、人間に紛れようとどうにかこうにか服を繕ってみたという体である。
「……いえ、大したことではありませぬ。今日はとてもよく風が啼いていますから」
そう言って立ち上がり原稿用紙を差し出すと、まるで幼子のような屈託のない笑みが返された。
「そうだな。……そうか、いや、ありがとう。春の気配を感じてな、迂闊に窓を開けてしまったのがいけなかった。これがないと俺は明日何を言われるか分かったものではないからな……」
受け取った原稿用紙を大事そうに抱え、そう零す。年はさして変わらないはずと思われるのにどこか古めかしく感じられるその人物に、小狐丸は興味を引かれていた。
「……不躾ですが、書き物をされているのですか」
「あ、ああ。そうだ。しがない小説家の端くれだが」
小狐丸の問いに、やや不思議そうにしながらも自分の手の中のものに気が付き、頷いた。
その時、また一段と強い風が吹き、二人の髪を跳ね上げる。
きゅっと瞳を引き結んでやり過ごすその姿に、はっと我に返らされた。
「その恰好ではお寒いでしょう。お引き留めしてすみません」
「いやいや、拾ってくれて助かった。こちらから何か礼ができるといいのだが」
「そんな、お構いなく。困ったときはお互い様ですよ」
「いや、しかし……」
小狐丸の方としては目の前の男を風に吹きさらしているという事が何となく後ろめたく、食い下がる姿に困り果てる。
「それでは、こうしましょう。今度、遊びにいらしてください。もっと暖かくなった頃に」
このままこの男と会うことがなくなってしまうのはやや勿体ないような気がして。何か繋がりが欲しかった。
口にすると、相手は訝しげに眉を傾ける。
「そんなことでいいのか? かえって邪魔になりはせぬか……?」
「ええ、もちろんです。是非ゆるりとお話が出来れば私は嬉しいのですが」
その言葉に、今度は花が綻んだように笑みが宿る。その、表情がころころと変わる様は、見ていて擽ったいような気にさせられる。花屋に生まれ花に囲まれて育ってきたが、これに勝る美しさの花に小狐丸は出会ったことが無かった。
「そうか、それではまた、訪ねさせてもらおう」
「ええ、よろしくお願いします」
諾の意を受け取り、満足気とばかりに上がる口角をそのままに、その花を見つめ返す。
「そういえば、名乗っておりませんでした。私は三条小狐丸。この花屋に常に居りますゆえ、ご都合のよろしい時にいつでも」
胸に手を当て、軽く頭を下げる。
やや低い位置にあった頭が、少しだけ近づいた。
「おお、こちらこそ名乗らずに。俺は三明宗近。三つの明けと書いて、みはる、と読ませる」
「三明、殿」
聞いたその名を頭の中で反芻する。清らな響きに、すとんと自分の中で腑に落ちたようだった。
「それではまた、是非に」
「ああ」
去り際に短く返したその顔を、鉢を片付け終えた小狐丸が再び開いた小説の近影に見とめ、悲鳴を上げるのは数分後のことである。