茶屋宿り

    「なあ、お前さん」

     鈍色が降りしきるじっとりとした宵の刻。濡れながら駆け込んだ一夜の宿で荷をおろし、整理をしていた清光の背に声が投げかけられた。

    「なーに。支度おわったんなら寝ちゃいなよ」

     水分を含んで重たい上着を広げ、明日出るころまでに乾かなそうだな、と清光は溜息を吐く。
     明日は朝早めに出立しようという話を先ほどしたばかりであるのに、開いた窓の縁に座る則宗は動こうとしない。
     窓の外には、五月蠅くはないけれど、それでもしっかりと鼓膜を叩く雨音。分厚い雲に覆われた空に正確な時刻を要求するのは中々厳しいが、もうそろそろ床についてもおかしくない時刻のはずだった。

    「ねえ、聞いてる?」

     返事どころか身じろぎもしない則宗に、清光は振り返る。
     ただでさえ遠征中に予定外の一泊を強いられているうえ、気分の落ちるような空模様である。清光でなくとも多少気が立つというものだ。

    「ああ、聞こえているさ」

     清光の苛立ちの対象は頑なにこちらを見ようとせず、重たい髪に隠されたその表情は読めない。

    「なら返事くらい、」
    「座敷だ。茶屋の」
    「はっ?」

     思わぬ言葉に、清光は固まった。
     急に何言いだしたの、このじじい。

    「……由来を知らんわけでもなかろ」

     小さく語を紡いだ則宗の顔が、少しだけ傾く。滑らかな顎の曲線を、零れ落ちたひと房の金糸が撫でた。
     徳川の治世、下町の人々の交流の場としての役割を果たしていた水茶屋。自然、逢瀬に都合が良いし、見目の良い看板娘は評判になる。
     「そのため」の座敷がある茶屋も少なくなかった。

    「へぇ、なるほどね」

     清光は部屋をぐるりと見まわした。確かに客を通すには些か簡素で、母屋から少し離れて位置している。
     気づいていなかった訳ではないが、則宗が気にしているとも思っていなかった。
     ――かわいいところあんじゃん。
     意識せず口角が上がる。

    「したいんだ、そういうこと」

     雨音こそするものの、二振りの他には気配を感じない静謐。
     既に二組敷かれた布団の上に、清光は静かに腰を下ろした。

    「おいでよ、則宗」

     両手を広げて声を掛けたその時、窓から吹き込んだ風に、菊の花弁がふわりと翻った。浅黄の相貌がよく映える、朱に染まった頬。
     一間置いて、躊躇うようにゆっくりと足を差し出し、通りざまに明かりを消して近づいてくる。
     徐々に暗闇がその範囲を広げ、則宗が清光のすぐ傍にやってきた時には、部屋を照らすのは枕元に置かれた小ぶりな行灯の光だけとなった。

    「……お前さんは、意地がわるいなぁ」
    「素直じゃないひとに言われたくないでーす」

     こういうときの則宗の軽口は照れ隠しであることを、清光は十二分に知っている。
     それがなんとも愛おしくて、自分より少しだけ体躯のいいその肩をしっかりと抱きとめた。



     今夜はゆっくり聞けそうだ。雨に溶けて消えていくような衣擦れの音と、時折混じる、嬌声と呼ぶには少し低い、甘くて蕩けるような声を。