優悠 -春-

   木々が擦れる音が耳に心地良い、穏やかな午後。
   満開の桜は風に舞い、昼下がりの陽だまりをそこかしこに作っている。
   冬の寒さの名残をはらんだ空気は、春休みのうきうきとした気分に丁度良い刺激を加えていた。
   少しずつ散っていく桜を名残惜しそうに見上げてやると、桜は応えるかのように一際大きく騒めいた。

  「お昼どうするー?」
  「駅前に新しいラーメン屋できてなかったっけ、行ってみない?」

   女子学生二人組が横を通り過ぎ、幻想的な世界へと向いていた意識が現実に帰ってくる。
   のどかな景色の中、「それ」を認識したとき、悠里音は自分の耳と目を疑った。
   どぽんという異質な音がしたような、と周りを見渡せば、桜並木のトンネルをひとつ隔てた向こう側、見慣れた噴水から脚が生えていたのである。
   普段は学生のたまり場となっている中央広場のちょうどど真ん中に位置する噴水なのだが、この春休みの間はさすがにそれほど人がいない。いつもなら人混みのお陰で先っちょの噴水口しか見えないものが、今日はやや離れた位置に佇んでいた悠里音からも、袂で起きているその変な光景が良く見えた。
   駆け寄って見るとそれは本当に人の脚で、悠里音は絶句する。流石に大学内で死体発見というのは笑えない。

  「あのー……」

   毎日大学の事務方の主事さんが掃除をしてくれているとはいえ、流石に透き通るほどの清流が流れている訳では無い。そのうえとめどなく流れている水が水面にさざ波を立て、顔も判別できそうになかった。
   声を掛けるとぽこぽこと泡が立ち、悠里音は安堵する。その辺りに顔があるらしい。
   数秒ののち、ゆっくりと手が水面から出てきた。ホラー映画か何かかよ、と悠里音は心の内でツッコミを入れる。「あの」 学生特有の楽しそうな笑い声が遠くに聞こえ、日常と非日常との隔たりが信じられなくなってくる。
   と、目の前の水面に断続的に登ってきていた泡が、突然途絶えた。
   まずい、反射的にそう思った。
   慌てて水面から出た腕の手首の当たりを掴み、引き上げる。
   さざ波が寄り集まって大きな波になり、噴水の縁を溢れた。

  「ゔぇほ、げほ、げほ」

   引っ張りあげたその人は、長駆に淡く青みがかった髪色、シャツに白衣を引っ掛けていた。ただし白衣といっても年季物らしく、酷く黒ずんでいる。
   桜の敷き詰められた石畳に座り込み、咳き込んでは深く呼吸して、を繰り返している。気管支の損傷が心配になるほどだ。

  「……どうしたんですか? こんなところで」
  「ん? 君は……、けほ、けほ」「あ、いや、落ち着いてからで構わないんですけど、」

   気になることは山ほどあったが、言葉を発しようとすると咳き込む人物に、悠里音はどうすれば良いのかいまひとつ分からず、ただおたおたすることしか出来ない。
   いやそもそも、人を噴水から引っ張りあげたあと何をすれば良いのか知っている人なんて、救急隊員か何かくらいしか思いつかないのだが。
   なんて心の中で突っ込みながら、とりあえずとハンカチを差し出す。

  「あの、よければ」

   縁取りに深い紅を使った、薄桃のタオルハンカチ。
   高校生のころに祖母から貰ったお気に入りのハンカチだ。

  「うーん、それは流石に申し訳ないよ」

   そう言って子犬のように首を震わせ、髪を伝う雫をはらい落とす。
   呼吸も落ち着いてきたようで、少し咳き込みつつも会話は随分スムーズになった。

  「でも、そのままだと風邪引きませんか……?」

   春になり暖かくなってきたとはいえ、まだ流石に水浴びをするような時期ではない。
   見ているだけでも寒そうだ、と悠里音は思った。

  「そこの研究室に行けばタオル置いてあるから。気持ちだけ貰っておくよ。ありがとう」
  「そ、そうですか」

   立ち上がってぱたぱたと白衣の裾を払っている。濡れた裾は桜の絨毯のお気に召した様で、払い落とすのに酷く苦戦していた。

  「おばあちゃんからの贈り物でしょ、大事にしなよ」
  「えっ?」

   このサイズではどちらにせよ足りないだろうし、と納得してハンカチを仕舞おうとしたところだったのに、今度は取り落としかけた。

  「……分かるんですか」
  「まあ、なんとなく?」

   にこやかに小首を傾げる姿は穏やかなのに、少しだけぞっとするのは何故だろうか。

  「手作りでしょ、それ。イニシャル入りだし、タグもないし何より」

   息をついて、真っ直ぐに見つめてくる。

  「込められてる思いが違う」

   あ、この人めちゃくちゃ美人だな。と思ったときに思い出されたのは、いつぞや聞いた「美人の真顔は怖い」という台詞。誰の言葉だっただろうか。

  「……思い?」
  「あとはカマかけただけ。服は流行り物なのにハンカチだけ少し懐かしい感じがするから」

   真剣な眼差しは消え、元のふわふわした笑みが浮かぶ。 悠里音は何も返せず、ハンカチを仕舞いかけたまま立ち尽くしていた。また聞きたいことが増えてしまった。

  「あ、もうこんな時間だ! 五分で戻りますって言っておいたんだった……」

   数十秒の沈黙の見つめ合いの後、正面玄関上に据え付けられた大きな時計に視線を移したその青年はありきたりな台詞で声を上げた。
   つい先日読んだ小説にもそんな台詞があったな。
   そんな事を思い息を零すと、止まっていた時間が流れ出したように周囲の音が耳に入ってきた。いつの間か無意識のうちに息まで止めてしまっていたらしい。
   何となく緊張したまま、作業しかけた手を収めて沈黙の原因のそれを定位置に戻した。

  「じゃあ、またね! 拾い上げてくれてありがとう!」

   勢いよくそう言い残して微笑むと、彼はそのまま走り去って行った。
   結局、気になったことは何ひとつ聞けなかった。名前さえも聞きそびれた。
   あそこの研究室、と言っていたけれど、だとすると上級生だろうか。
   なんだか、風みたいな人だ。
   それが彼の第一印象だった。